2011年12月06日

大詔奉戴日

大詔奉戴日という言葉をご存じでしょうか?

リンク先にもありますが、1941年12月8日の太平洋戦争開戦を記念(というのかどうか)するために毎月8日に定められていたものです。

私はその言葉を、この本で知りました。
P1000252.jpg
あかりのない夜
表紙をご覧になっていただければ一目瞭然ですが、この児童書は戦争末期が舞台になっています。

しかし、ここに書かれていることは戦争の話だけではありません。

戦況もいよいよ苛烈を極めてきていた1944年12月7日午後、紀伊半島東部の熊野灘、尾鷲付近を震源としたM8クラスの大地震が起こりました。
東南海地震と呼ばれる地震です。
阪神淡路大震災以後、日本の地震の歴史がクローズアップされる中で、この地震もようやく歴史に登場するようになりました。

この本は児童書ですが、ちょうど静岡県で東海地震議論が盛り上がりを見せていた1977年に出版されたものです。
先程の言葉もそうですが、東南海地震というものがあったことも、私はこの本で知りました。

本の舞台は静岡県西部、袋井付近です。
ここに東京から学童疎開でやってきていた小学5年生の女の子を主人公として、疎開の生活の辛さから地震の経験、さらに地震によりまたこの土地から別の土地に疎開することまでが描かれます。
この小学5年生の女の子の日記を元にした記述と、作者である上坂さんが地震について取材している様子が交互に書かれ、一種のノンフィクションノベルのような構成になっている小説です。

東京から疎開してきたこの学校では、勤労奉仕に向かう途中で何名かの子供が地震のために命を落としました。
本の最後のほうでは、都心に住んでいたこの子たちの両親も、3月10日や5月25日の空襲で亡くなったり一家全滅したりで、未だに骨壷の引き取り手がない、ということが書かれます。
この時点で戦後約30年近くが経っていましたが、当時に生きている人でもこの地震の知識はなく、また地震を体験した人でも震源地やどのくらいの被害だったのかなど、詳しい知識は持っていませんでした。
すべて戦中の報道管制のため、民間人にそれら一切が知らされることはなかったそうです。そのため、戦後になっても長い間、この地震は他の地震に比べて知るものの少ない地震となってしまいました。
でも、国内では報道管制されていましたが、外国では地震計にはっきりと兆候が出ていたので、アメリカなどでも日本で大地震が起こったことは筒抜けだったようですね。
これくらいの大きさの地震なら、そりゃそうだよなあと思いましたが…。
また、本の中にも当時の被害状況等が図になって載せられたりしていますが、現在の数字よりももっと規模が小さくなっています。
それだけ、1977年時点においても、状況がはっきりしなかった地震だったのでしょう。

大詔奉戴日という言葉は、確か彼女たちの地震後の台詞にあったものだと覚えています。
「明日は大詔奉戴日だけど、これでは行事はできないわね」というような意味合いの台詞でした。

今年の春の東日本大震災以来、家にあったはずのこの本を、私はずっと探していました。
といっても狭い家なので置いてある場所はわかっていたのですが、なかなかそこまで手が届かず。
先々月、ようやくその場所の整理をしたので、この本も取り出せることができまして、久しぶりに読み返してみたのでした。

子供の頃に読んだときには、へえそんな地震があったんだ、くらいな考えだったと思います。図解されている地図を見ても、あと東京の地名を書かれてもよくわからなかったし。
けれど今は違います。大人になってから読んだら、この本から読み取れる情報の多いことといったら。
そしてこれまでに加えた知識と、曲がりなりにも自分も大震災を体験したということで、さらにこのお話の重みが増してきたような気がしました。

現在、絶版になってしまっているらしいのですが、今こそこういう本を出版してもらいたいものです。
図書館などには、まだ保存されているところもあるでしょうか?
(ちなみにウチの地域の図書館には、かろうじて保存されておりました)

子供が読んでも大人が読んでも、今だからこそこの本の内容は胸に迫ってくるものがあるでしょう。
地震と戦争の犠牲になった子供たち。その姿を、私たちは忘れてはいけないと思います。
posted by Mikkey at 17:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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